「歴史の虹」が見えている人について

歴史学者は、ミクロ的視点から、史料収集し、史料検証し、それを積み上げて、論文とし、それを集積して、歴史書とする傾向がある。職業上、そうなるのは当然の事だ。

ただ、この手法に問題がない訳ではない。

・木を見て森を見ずとならないか
・文献資料の検証に手間をとられ、文献資料以外に無関心とならないか
・教条主義的思考に陥らないか

コツコツと文献を探しあて、史料検証した後、歴史論文を作成する、文献検証至上主義者が、陥りやすい傾向にあるようだ。

渡部昇一は、数々の歴史書を手がけている。渡部昇一は、「歴史の虹」が見えているようである。それゆえ、通史ものの本が書けるのであろう。
渡部昇一は、「歴史の虹」について、こう述べている。

―――――――――――――――――

「名著で読む日本史」 渡部昇一 


4~6頁

歴史には、国史すなわち「自分の国の歴史とは何か」という問いかけがあります。
これについて私は、若い頃に読んだオーウエン・バーフィールドの考え方に賛同しています。彼の考え方はだいたいこういうことです。雨上がりの空には無数の水滴があります。水滴はただもやもやしているだけですが、ある一定の距離、一定の方角から眺めると「虹」が見えるのです。その同じ「虹」を見ている人たちは、共通の歴史認識を持っている人たちであって、この「虹」はその人たちの国史になるのである、と。

中略

歴史的事実というものは無数にあります。では、歴史的事実が無数に書いてある新聞紙を積み重ねるとそれが歴史になるかといえば、それは歴史の史料にはなるけれども、歴史にはならないし、国史にもなりません。そうした無数にある史実の中から、一つの流れ、「虹」のようなものが見えてきれ、それが多くの人の共通の歴史認識となったときに、「これはその国の歴史(国史)である」といえるのです。

でもその「虹」を調べようとして「虹」に近づいていけば「虹」は消えます。細かい歴史的事実に近づくだけでは国史は見えてこないのです。

私にこういう本を書く資格があるのか、と疑問を感ずる人がいるかもしれないので、あらかじめ答えておこうと思います。
歴史について語るとき、私は自分が素人と専門家の間に位置する人間であろうと考えています。大学では、英語学、専門としては英文法史を中心としてイギリスのいわば国学史に当たるものを研究しておりました。しかし、旧制鶴岡中学・新制鶴岡第一高校時代の恩師・佐藤順太先生(博識で、英国の貴族の生活、その趣味ある猟に詳しく、猟銃・猟犬についての戦前の第一人者でした。当時の百科辞典のその項目を担当しておられました)の影響もあり、日本のことやシナのことに対しても関心を失いませんでした。そのため大学では英語教師になるための単位を取るのと同時に、国語漢文の教師になるための単位も取りました。ただし、教育実習には出ていませんので教育免状は持っておりません。

ですから、私は日本の文献を読んでいるという点については素人より少し上であると思います。しかし、日本の歴史についての専門家ではありませんから、半素人といった位置にあるといっていいでしょう。
ただ、私は専門家と素人の中間にいる人間にも価値があると思います。というのは、今の世の中では、歴史の専門家になるとどうしても自らが専門とする狭い時代の研究に集中しなければなりません。私の知っている専門家たちを見ても自分の専門である三十年から五十年の間に関する知見を除けば、素人同然という人も見受けられます。その点、専門家と素人の真ん中辺りにいて「虹」を見続けた人間には、かえって専門家よりも「虹」の姿をうまく伝えることができるのではないかと思うのです。

―――――――――――――――――

『「虹」に近づいていけば「虹」は消えます』という表現は二通りの状況を暗示しているようである。一つは全体をみようとしないこと、もう一つは教条主義に落ちいり排他的になることである。

渡部昇一が、歴史の虹が見えているとする、最大の理由は、古今東西の歴史書を誰よりも読み込んだ結果ではないかと私は思っている。
この点については、渡部昇一を批判する人は見習わなくてはならないだろう。

これに対し、歴史学者たちの研究実態はどうだったか?

倉山満は、歴史学者たちの視野狭窄実態(専門馬鹿状態)について、「嘘だらけの日露近現代史」という本の中でかく暴いている。

―――――――――――――――――

12頁

部分的には、ものすごく詳しい人は多い。しかし、全体を語れる人がほとんどいません。これは大学教授も、そこらのオタクであっても変わりません。たいていの大学教授は「自分の専門以外のことを語らないのが美学だ」などとわけのわからない言いわけをして己のモノ知らずを自己正当化しますし、オタクは最初から自分の好きなことしかしません。
だから、部分的には正しくても全部つなげると意味不明な話になりかねないのです。

128頁
たいていの大学教授や院生は「まさか」と内心で思っていても、自分の専門分野じゃないからまあいいか、と右から左です。要するに他人の話を聞かないので、「これは私の縄張りだ。俺が世界で一番詳しいんだ」と言い張る人がいれば、誰もツッコまないのです。そうすると、お互いに攻撃されずに済みます。

―――――――――――――――――

歴史学者たちは、渡部昇一ほど古今東西の歴史書を読んでいないようである。

実際、専門以外の歴史分野については素人同然という指摘もあるようだ。

通史が書ける歴史学者は何人いるのであろうか?

さて、歴史の虹が見えている人は、他にもいる。

アメリカ史では、渡辺惣樹が該当する。日本のアメリカ史の歴史学者は、国内にある文献資料中心で研究しているようであるが、渡辺惣樹は、アメリカにある史料にかなりウエートを置いて研究している。在野の人ではあるが、日本国内のアメリカ史の歴史学者を乗り越えた、と見ていいだろう。

倉山満については、過激な言動などから賛否両論ある人ではあるが、歴史の虹が見えている人だと思う。

国別の(リライトではない)歴史書が書けるのは、歴史の虹が見えているということである。

代表的な著作を参照しておきたい。

・嘘だらけの日米近現代史
・嘘だらけの日韓近現代史
・嘘だらけの日中近現代史
・嘘だらけの日露近現代史

倉山満は、視点を変え、国別に歴史書を読み、整理したうえで歴史解説書として書いたに過ぎないのだが、通説の間違い?を指摘する件は、読む人にとっては痛快そのものである。

倉山満の本は、リライト部分が少ない。当たり前のことであるが、リライトしたに過ぎないものを歴史書だと思うことがおかしいのである。
倉山満の本によって、歴史学者たちは一体何を研究してきたのか、気づく人が増えているのではないかと思う。

歴史学者で、国別に歴史書を書ける人は、一体何人いるのであろうか?

同様の手法で歴史書を書いている人は、もう一人いる。

岡田英弘もモンゴル史を通じて、中国史を眺めている。

外国人では、黄文雄がそれなりの歴史書が書けているようだ。外国人として、視点を変えて淡々と書くという当たり前の作法が身についているから書けるのだろう。

この他に、見落とされてきた文献を発掘し、歴史書を書いている人についても、「歴史の虹が見えている人」として分類できよう。
ただ、問題はある。その「虹が見えている範囲」が狭いケースが多いのだ。狭い範囲で「虹」を見つけてしまった場合は特に。ミクロ的には正しくても、それを正当化しようとするあまり教条主義に走る懸念があるのだ。(もともと正解はない世界だというところから始まっている人の場合は陥ることはないことではある。)「虹が見えると自覚しているから歴史書が書けるのだろうとは思うが、通史との係わり、他国との係わりを含め、全体の中でどう位置付けるか、歴史を鳥瞰し、どう埋め込むかがポイントとなるような気がする。部分的には素晴らしい歴史観であっても、全体整合性をどう説明するのか、ということなのである。

いろいろ書いたが、私の場合は、古今東西の歴史書などを読む他に、渡部昇一のように歴史書を読み込む努力、倉山満のように国別に歴史観を鳥瞰する能力、黄文雄のように視点を変えて淡々と書くスキルを身につけたいと思っているところである。




"「歴史の虹」が見えている人について" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント