南京虐殺 ゾルゲ事件の亡霊が今も生きている?

どうやら、本多勝一の国会招致が規定路線化しつつある、政治情勢にあるようだ。そう発言する人が、自民党公認で出馬が予定されているからだ。

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http://www.sankei.com/world/news/151128/wor1511280056-n1.html

「南京大虐殺の証拠ないと発信を」歴史捏造を正す国民会議が集会

 中国が申請した「南京大虐殺文書」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産に登録されたことを受け、有識者らでつくる「『南京大虐殺』の歴史捏造(ねつぞう)を正す国民会議」は28日、東京都内で集会を開いた。参加者からは、虐殺の証拠が存在しないことを政府が対外発信するよう求める声が相次いだ。

 同会議議長の渡部昇一上智大名誉教授は「組織的な虐殺はあり得なかったと断言できる」と指摘。民主党の松原仁・元国家公安委員長は、日本兵と談笑しながら帰宅する女性の表情が修正されて強制連行の写真として利用されていることなどを紹介し、「証拠は存在しない」と強調した。

 山田宏・元次世代の党幹事長は「国が責任を持って国際社会で発言してほしい」と述べるとともに、大虐殺があったとの誤解を国内に広める連載記事を書いた朝日新聞の本多勝一記者(当時)の国会招致を求めた。

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自らの体験で以て、南京虐殺がなかったことを語られる方もいる。

【右向け右】第79回 - 鈴木史朗・アナウンサー × 花田紀凱(プレビュー版)
http://blog.goo.ne.jp/apita_21/e/5c301e9d27213097993882f2a61d5b69

実は、南京については、倉山満がその著書「負けるはずがなかった!大東亜戦争」で指摘していることであるが、戦前においても誤報があったそうなのだ。

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負けるはずがなかった!大東亜戦争

倉山満

150~151頁

日清戦争の頃の日本は、伊藤博文が「首都を落としたから和平を結べなくなる」と言って、北京を落とす寸前で和議を持ちかけています。西太后が北京を出たくないと思っていることを知っていたのです。しかし、支那事変の時の日本は、朝日新聞に「南京陥落」の誤報をスクープされてしまったので、「それなら今から南京陥落しなきゃ」「明日までに落とそう」とやってしまう。しかもその時蒋介石はとっくに重慶に逃げています。支那事変は、日本では誰もやめることを考えずに始めてしまっているので、そもそも戦争計画などあるはずがありません。唯一まともな和平条件を考えていたのが石原完爾で、すぐに失脚してしまいました。

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これはどういうことなのであろうか?

朝日記者と蒋介石がグルだった場合を想定したい。

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仕組まれたシナリオ(イメージ)

第二次国共合作下の国民党軍は、戦力では勝てない日本軍に、プロパガンダでしか勝利の道がないことを確信し、南京虐殺ネタで日本軍を外交的に追い詰めることを思いついた。

そのアイデアがあることを朝日記者が知り、国民党軍の動きに合わせ、南京突入していないのに、南京陥落の誤報を配信した。

目的は、どうしても南京陥落させ、日本軍を罠に嵌め、日本軍の悪行を喧伝するためである。

蒋介石はプロパガンダを仕掛けようと、南京城内で大量虐殺の形跡を日本軍の悪行にすり替えるべく、残し、こっそり撤退した。
撤退に際し、督戦隊をこれまで以上に確保、組織した。

督戦隊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A3%E6%88%A6%E9%9A%8A

それを察知した、国民党軍の兵士たちは、は、味方に大量虐殺されてはかなわないと考え、民衆に紛れ込んだ。国民党軍に虐殺されないために、便衣兵とならざるを得なかった。

その状況で日本軍が突入した…………

戦後、捏造南京虐殺が喧伝される事態となった。

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こういうシナリオなら、辻褄があうかもしれない。

こういう指摘もある。

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プロパガンダとしての南京事件

田中秀雄(日本近現代史研究家・自由主義史観研究会会員)

http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu4_tanaka.html

戦前の有名な支那学者である長野朗は「蒋介石は宣伝で北伐を完成した」と言っていますが、それはまさにこのことなのです。

日本軍による南京攻略もまた、宣伝=プロパガンダに長けた中国人にとっては格好の素材でした。なにしろ毛沢東もいっているように、虐殺行為は陥落前から決まっていたのですから。彼らにとっては、戦争には宣伝が不可欠です。日本人は戦争は軍人が武器を取ってするものとの固定観念がありますが、中国人にとってはある意味で、宣伝が武器よりも優先するのです。プロパガンダが世界に認められたとき、始めて抗日戦争は彼らにとって勝利となるのだということを忘れてはなりません。むろん私たちはその虐殺なるものの事実の上に屈服謝罪しなければいけないのです。ですから「平和友好条約」という戦争終結宣言など実はあまり意味がなく、空手形に終わりかねないということです。

日本軍による南京での虐殺、掠奪、強姦などは当地滞在の欧米人たちによってまず報道されましたが、その速さと手際のよさは、国民党の宣伝機関と深く事前に結びついていた可能性が高いと思われます。当時は世界的に左派リベラルと共産主義が結びついていた「人民戦線」の時代で、"中国を侵略する日本"という図式は確固なものとしてあり、欧米の世論は日本非難に傾きがちだったのです。また盧溝橋事件が起きた時点で、中国では共産党と国民党が合作し、手を握っていました。共産党が宣伝に巧みなのは今も昔も変わりません。

また南京在住の宣教師たちや安全区委員会代表のジーメンス支社長だったラーベとかはその中国在住期間が長く、布教活動やその利害において国民党政府と深くつながっていた関係にあるのです。彼らによる日本軍非難の言動や著作の信用性には一定の枠がはめられなければいけないと思います。

一例を挙げましょう。南京虐殺を最初に著作にしたといわれるティンパリーの『戦争とは何か?』は北村稔氏や東中野修道氏によって、国民党宣伝部の意向によって書かれたということが判明しています。昭和13年に出ているその日本語版には鹿地亘と青山和夫の二人の日本共産党員の序文がついています。これだけで、どういう意図の下にこれが書かれたかは分かろうというものです。プロパガンダなのです。書いてある内容はグロテスクとしかいいようのないおぞましいものですが、日本の飛行機は「日機」と書かれ、日本留学経験のある中国人によって書かれた可能性が高いのです。ですからティンパリーは英訳に使われただけという可能性もあります。

このグロテスクさというのは、『揚州十日記』などの中国伝統の"屠城文学"の内容とほぼ同じで、ラーベの日記として知られる『南京の真実』もそういうたぐいの屠城文学なのです。事実というより、宣伝=プロパガンダに利用するために書かれたものといったほうが正確でしょう。

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日本軍に負け続けだった国民党軍が、第二次国共合作(1937~1945年)の初期段階ということもあり、南京虐殺を仕組む動機は十分あったし、それを裏付けるような発言もあった。

一方、1941年のゾルゲ事件摘発に際して、取り調べ対象者が支那関係者にも及んだことは特筆すべきことである。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6

グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ汪兆銘・南京国民政府の顧問も勤める犬養健、同じく友人で近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けたが、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人であり、しかもオイゲン・オット大使と親しいことや、前年にイギリスのスパイの疑惑で逮捕されたイギリスのロイター通信社の特派員のM・J・コックスが、特高による取調べ中に飛び降り自殺したこともあり、特に外国人に対する取調べは慎重に行われたという。

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これを読むと、ゾルゲ事件の尾崎秀実は、南京突入時(1937年)、中国問題の専門家だったそうである。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%A7%80%E5%AE%9F

尾崎秀実

諜報活動
1932年2月末に大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻り、外報部に勤務。同年5月末に「南龍一」こと宮城与徳が本社に訪ねてきて、彼を介して奈良において6月初旬にゾルゲと再会、彼から諜報活動に従事するよう要請されて、全面的な支援を約束、ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになる。暗号名は「オットー」である。また、鬼頭銀一と神戸や大阪でたびたび会っていた。

1934年10月、東京朝日新聞社に新設された東亜問題調査会勤務となり東京朝日新聞に転じる。1936年、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となる。このとき西園寺公一の通訳であった牛場友彦とも面識を得る。この会議のパーティーで、オランダ領東インド代表のオランダ人から、アムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者のゾルゲを紹介されて、初めて本名を知ったという[3]。

翌1937年4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。7月、東京朝日を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。1939年6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。

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私は、戦前の誤報について、尾崎秀実が直接・間接に係わった可能性を指摘する。

すなわち、戦前誤報した、朝日記者の素性と戦後の報道活動実態、尾崎秀実や本多勝一との関係を確かめておく必要が発生するのである。

もし、接触していることが確認されれば、ゾルゲ事件の亡霊が今、生存していることになるのだ!

彼は、なんとゾルゲ一派???

かもしれないのである。

そして、本多勝一国会招致に合わせ、もう一人招致すべき人物がいる。それは歴代の朝日新聞社の社長である。

質問項目はこうなるだろう。

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歴代朝日新聞社長に対し、国会で質すべき事項

・戦前の南京での誤報について知っているか?
・戦前に誤報した朝日記者の素性とその後の消息について知っているか?
・本多勝一と、戦前に誤報した朝日記者と接触はあるのか?ないのか?知っているか?

・取り消し発表した記事について、年月日、記事すべてについて公告しない理由
・取り消し発表した記事の、公共施設での廃棄処分についてなぜ協力しないのか?
・取り消し発表した記事について、廃棄協力しないのであれば、過去記事一括廃棄扱いでいいということか?

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これでは不十分だという意見があるかもしれない。

要するに、朝日関係者におかれては、国会招致という名目の下、徹底的に「公開尋問」される事態が近づいているのである。

不謹慎な対応をすれば、廃刊だけでは済まなくなるのである。

朝日元記者が韓国で職を得たのは、エンドレスで「公開尋問」が続けられることを避けようとした結果なのである。若宮某が韓国に居るのもそうなのだろう。

ゾルゲ事件の亡霊が係わっているのであれば、徹底的に捜査し問題があるなら殲滅するのは国家的見地から当然であり、捏造や誤報が突出して多い朝日記事については、戦前に遡り(重大な誤報事案の有無について)再調査しておく必要があることを最後に提言し、本稿を終える。

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