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<<   作成日時 : 2011/08/07 06:51   >>

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注意
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この原稿には、刺激的な情報が含まれているので、最初にことわっておきたいことがある。
それは、これらの情報を外国人に提供することによって、当事者間の紛争に発展したり、外交上の問題が発生する可能性があるため、仮にそのような事態になったとしても、その責任の帰属は先方に情報を提供した人にあると考える。当然、紛争等に係わる処理は、対応した各自の責任においてお願いしたい。
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さて、今回のテーマは、韓流ドラマ愛好者そして韓流スター向けに知らせたい情報の話である。

マスコミが、韓国の手先となって、韓流ブームを捏造し韓流ドラマ垂れ流しを続けているようであり、フジテレビへの不視聴運動を側面支援する作戦として、韓流ドラマ愛好者のみならず、来日する韓流スターに聞かせたい情報を集めてみた。

その情報とは、敗戦直後、あの国で日本人非戦闘員が受けた屈辱である。

敗戦直後、満州から帰還中の日本人非戦闘員はあの国において、言われなき虐殺と略奪と凌辱を受けた。

その事実は、被害を受けた関係者しか語り継がれていないようだが、韓流ドラマに熱中している平和ボケした女性たちに、これでもまだ韓流ドラマを見たいか、日本人の常識として読んで聞かせるべきだ。
そして、学校で反日教育を受け、日本を小馬鹿にして訪日する韓流スターたちに、あなたたちの祖先がこういう行為を平気で実行したという事実を教えて差し上げるいいネタだろうと思うのだ。

そして、なんと驚くなかれ、年配の女性議員の中に韓流趣味の方が多いようなので、確かめるいい機会だろう。

私は、テレビなど見ないし、お馬鹿タレント、お笑い芸人、反日コメンテーター出演番組も完全シャットアウトしている。NHK大河ドラマも韓流番組も反日日本人が司会するすべての番組を見ない。
家族もテレビを見るのをやめた。だから、こういう類の番組が消滅しようとなんの影響もない。


以下に、ネットで収集した情報リストを掲載する。

周知と説得のためにどれを選ぶかは、選ぶあなたのセンス次第である。
韓流ゴリ押し擁護派については、敗戦直後、日本人が受けた悲惨かつ言われなき屈辱に関連づけて、同じ日本人としてどう思っているのか確かめるのが面白いだろう。もっとも彼らの大半は日本人なりすましなので、意に介さないかもしれないが、公開の場で問い詰めた場合、いい加減な受け答えはできなくなるはずなので、ファンを装って試してみる価値はあるだろう。たぶん、大騒動になるような気がする。

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http://www.nomorekorea.com/?p=375

著名人 韓流ゴリ押し擁護派否定派

ゴリ押し擁護派
田村淳・・・ Twitterで韓流擁護発言
茂木健一郎(脳科学者)・・・ Twitterで韓流擁護発言
ケンドーコバヤシ・・・ 番組内(にけつッ!等)でKARA大好き発言
土田晃之・・・ 番組内(さしこのくせに等)で少女時代大好き発言
後藤輝基(フットボールアワー)・・・ 番組内(眠れぬ街のアプリンス等)で少女時代大好き発言
藤井隆と乙葉夫婦・・・ ダウンタウンDXにて韓流(特に少女時代)をゴリ押し
浜村淳・・・ ラジオで高岡批判


ゴリ押し否定派
高岡蒼甫・・・ Twitterでゴリ押し批判
ふかわりょう・・・ ラジオでゴリ押し批判
中田宏(元横浜市長)・・・ Twitterで高岡氏に賛同
田母神俊雄(元航空自衛隊幕僚長)・・・ Twitterでゴリ押し批判

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また、来日する韓流スターに、ファンを装って情報提供したり、本をプレゼントし、真実を知らせる作戦も有効かもしれない。



(情報リスト)
満州からの日本人引き揚げ者に対する残虐行為

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・『お星さまのレール』

人気女優・小林千登勢さんの実体験を描いた、同名の児童文学(金の星社刊)をもとに作られました。
http://homepage2.nifty.com/taejeon/kaiho/kaiho-35a.htm

「お星さまのレール」解説とあらすじの詳細
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27694/index.html

生まれたばかりの弟を背に、星をたよりに、いのちがけで越えた38度線。9歳の時の引き揚げの体験を、平和への祈りをこめて、ありのままにつづったノンフィクション。
女優である著者が描く、母が子に語る戦争体験。

その中で小林千登勢さんは79名のグループを組んで北朝鮮から引き揚げてこられた体験に
ついて、「・・・・(略)・・・・」と当時の様子を昨日のことのように語られています。
http://www.heiwa.go.jp/event/c15.html


『お星さまのレール』
  1993年 カラー アニメ16_ 75分
 【推薦】
  全国学校図書館協議会選定
  日本図書館協会選定 
  厚生省中央児童福祉審議会特別推薦
  日本こどもの本研究会選定
  第30回サンケイ児童出版文化賞受章


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・中国残留姉妹の惨酷記
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11hikiage/H_11_065_1.pdf


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・ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/rekisi2.htm

敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事

共産主義国家の蛮行は左翼マスコミに無視されてきた。

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
惨憺たる北鮮引揚げ
日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。
…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…
われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。…
駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)


一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。


「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑
三十八度線        木下宗一

満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にまっ二つに分断した。北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。(中略)北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。ぞうりを履いている者はほとんどいない。女も子供も皆ハダシである。山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。

若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のカユをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。負けた者の宿命に、悲しいあきらめを残して、これらハダシ部隊の大部分はぞうりを恵まれてたって行く。1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら――

乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日ひとり1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大なべで作られていた。そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやってきた。遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。

今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。

その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。「今度は一切の所持金を提出しなければならない。もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。

その朝も、恐怖のマトである命令が来た。1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。この雨中の別れが、長い長い別れとなった。この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。


「生きて祖国へ5 死の三十八度線」 引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会発行
(灰色文字は管理人注)
(日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行することになった。)私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
(中略)
夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。あのエンジンの音の嬉しさと恐ろしさとは忘れることができない。途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこのころには、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。この脱出コースは、関所があり、検査所があり、牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)


「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦12」 平成14年 平和祈念事業特別基金発行
(灰色文字は管理人注)
私の三十八度線突破記録  梶山緑

(筆者の家族は朝鮮北部の咸境南道元山市郊外にある文坪という町に住んでいた。)
8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった… 文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。

そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。

こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。

命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。
(中略)
そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。

秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。

あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した… 両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。元山駅に向かって歩き出した… 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。その上に今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった… 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。

厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった… 薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。

ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった… 死者が出ても葬式をだせるはずもない… なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た… 深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。 家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした… 保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。
(中略)
昭和21年の正月を収容所で迎えた。その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。 …相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。 …収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。 …やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された… 北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。

私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した… 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。38度線突破行の第一歩がこうして始まった… 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした… 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。通行料は10円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた… 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった… 行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。 …連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた… ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。 …3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。

…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。

いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。 …ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。

夜半の12時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた… そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。無言の行進が続いた。しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。はじめてだまされたことに気付いた。みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。

…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。 …しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。帰国が果たせなかった多くの人が、異郷の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。


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http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist1_2_5.htm
・敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事

 北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
 それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。
 「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/rekisi2.htm

ソ連兵は日本軍が提出した武器を、その場で八路軍(共産軍)に渡し武装させた。
国家から見放され、後に残された日本人に対して支配者八路軍(共産軍)と朝鮮義勇軍によって掠奪、暴行、拉致、殺戮の地獄が繰り広げられた。


………………………………………………………………………………

『ある戦後史の序章』 (「石田一郎の手記」西日本図書館コンサルタント協会 所収)

 「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソード
がある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと
38度線近くの鉄原にたどりついた。
 そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の
保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。
折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを
不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって
私に見せてくれた」
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/popup/jprint.php?board_id=phistory&nid=75340

………………………………………………………………………………
http://unkar.org/r/edu/1205947812

2002/09・05 週刊文春  P172 ”読者からのメッセージ”より
 「外地での悲惨な経験」
 八月十五・二十二日号「五木寛之 ソ連兵の暴虐と家族の非業の死」を読ませて頂きました。五木氏の体験と同じではありませんが、終戦当時私は八歳。連夜訪れるソ連兵に訳の分からぬまま外へ逃げ出し畑に隠れていました。
 若い女性を1ヶ所に集めて、朝鮮兵が暴行を加えた。そんな事もありました。被害にあわれた人達の気持ちを思うと、語ってはいけないことだと思います。このような出来事を知る人が少ないのはこの所業(せい)でしょう。
 日本国は昭和二十年に入ってからも「大陸の花嫁」を外地に送り込んでいた、と後で知りました。守る兵のいなくなった外地に少女を送り込む愚行がなければ、彼女達は犠牲者にならなかった。
 その時、残された軍は何をしていたか? せっせと家族を内地に送ることに専念し ていた。全てでは無いでしょうが・・・・・・。
(富山・渡辺正保・無職・65)

………………………………………………………………………………
http://current-affair.blog.so-net.ne.jp/2006-03-03-1

【コピペ】引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐 [歴史コピペ【日本-ソ連編】] [編集]
正論 2005年 11月号
引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐
(一部抜粋)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、
 今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
 辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
 そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
 ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、
 虐殺されている光景であった。
         (中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
 ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
 夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
 娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
 みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
 靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
 一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
 城津での惨状は言語に絶した。(中略)朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、
 干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
 あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
     博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。
昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。
医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。
         (中略)
京城女子師範を卒業して朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。
しかも一度では済まず、相手も変わった。
兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。
救療部の関係者は悩んだあげく堕胎手術に踏み切った。
医療設備や技術の不備、そして何よりも、当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。
しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。
「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、『水子の譜』に収録されている。
同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、
強姦の加害者は朝鮮人が最も多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、フィリピン人も登場する。
         (中略)
中絶された胎児は、黄色人種もあれば、白人の子もいた。 
    (後略)

2002/09・05 週刊文春  P172 ”読者からのメッセージ”より
 「外地での悲惨な経験」
 八月十五・二十二日号「五木寛之 ソ連兵の暴虐と家族の非業の死」を読ませて
頂きました。五木氏の体験と同じではありませんが、終戦当時私は八歳。連夜訪れ
るソ連兵に訳の分からぬまま外へ逃げ出し畑に隠れていました。
 若い女性を1ヶ所に集めて、朝鮮兵が暴行を加えた。そんな事もありました。被害
にあわれた人達の気持ちを思うと、語ってはいけないことだと思います。このような
出来事を知る人が少ないのはこの所業(せい)でしょう。
 日本国は昭和二十年に入ってからも「大陸の花嫁」を外地に送り込んでいた、と後
で知りました。守る兵のいなくなった外地に少女を送り込む愚行がなければ、彼女達
は犠牲者にならなかった。
 その時、残された軍は何をしていたか? せっせと家族を内地に送ることに専念し
ていた。全てでは無いでしょうが・・・・・・。
(富山・渡辺正保・無職・65)

正論11月号 P.238〜
引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐  米田健三
(主要部抜粋)
>「これまで親しくしていた満人の友も匪賊と化して襲ってくる」
>「日本人は皆殺しだと宣告され、幼児までが中国語で話せと強要されたこともある」

>「いつの間にか満人の農民に取り囲まれていた。
> 度重なる略奪に身ぐるみはがされた私たちに、子供を売れと強要するのである。
> 男の子が三百円、女の子が五百円だという。

>「母と二人で満州の原野を歩いていた。
> 脇からあらわれる満人たちが、僕の体に手をかけて引っ張るんだ。
> 食べ物をちらつかせ、子供を寄こせ、子供を寄こせという。
> 母は、僕を取られまいと、必死になって僕の手を握っていた」

>敗戦の弱みにつけこんで、
>路傍でわずかな物やカネと引き換えに「くれ」というのだから尋常ではない。

>「当時の遅れた農村社会の中国・満州にあって、子供は将来の労働力。
> ましてや、東洋鬼の日本人の子は、奴隷要員ですよ。
> カネで買うとき、男の子より女の子のほうが高かったのは何故だかわかりますか?
> 少なくとも、当時の中国では女の子が大きくなったら“商品”になったからです」

終戦前後の満洲における惨劇
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ioriya-notes/mondaishi/sangeki-1.htm
http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ioriya-notes/mondaishi/sangeki-2.htm

ロシア(ソ連)の事跡を検証する
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-179.html

戦後…博多港引き揚げ者らの体験
<1> 「ソ連が来る」息潜めた2006.07.20 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060720.htm
<2> 医師らひそかに中絶手術2006.07.27 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060727.htm <3> 麻酔なしの中絶手術2006.08.03 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060803.htm <4> 日誌につづられた悲劇2006.08.10 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060810.htm <5> 孤児収容所愛情の記憶2006.08.17 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm <6> 孤児の女性が保母に2006.08.24 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060824.htm <7> 子どもの心潤した食事と行事2006.08.31 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060831.htm 北朝鮮引き揚げの悲劇 http://tech.heteml.jp/2006/11/post_862.html ☆参考図書☆


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内 容 ニックネーム/日時
韓流ドラマって、歴史ものでも、時代検証なんてゼロです。
完全にファンタジー。
朝鮮人は、19世紀まで色のついた服など着ていなかった。
coffee
2011/08/08 20:22
実は、韓流ドラマ、1本もみておりません。
NHKの宣伝部分を見ただけなのです。
Shirasu J
2011/08/08 20:26
ここで紹介されていることは昔のことですが、彼らは今も真に同じことを日本に対して行っています。
日本での凶悪犯罪、朝鮮暴力団、竹島不法占拠、韓国起源説あげればきりがありません。
ななし
2011/12/03 20:47
一つ一つ整理し、この国で二度とこのようなことが起こらないようにしなければなりません。
Shirasu J
2011/12/03 20:49

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