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zoom RSS 漢文教科書が教科書の中で最も偏向している?

<<   作成日時 : 2015/02/05 06:33   >>

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今回は、本居宣長、山鹿素行的視点から、漢文教育のあり方について述べさせていただく。

教科書で偏向していると叩かれるのは歴史教科書、続いて、政治経済の教科書だと思ってきたがどうもそうではないようだ。
漢文の教科書が最も偏向していると、漸く気づき、こうして出稿することになった。

とりあえず、そう判断するに至った理由を挙げたい。

―――――――――――――――――

漢文教科書が偏向していると判断するに至った根拠

・教科書の題材として、孔子、孟子など支那哲学に集中していること(旺文社の名著とされる「漢文の基礎」という参考書もしかり)
・政治思想として、儒教は弊害があり(下記注1参照)、支那の支配層は儒教を捨て、別の哲学に乗り換えたことについて、言及がないこと
・日本人が漢文で最初に表現した歴史書と考えられる、日本書紀について、題材として扱っていないこと
・日本書紀等における、文法的解釈と現在の教科書レベルでの文法的解釈の差異について、差異があるのか、同じなのか、教科書レベルの知識では判断不能
・本居宣長は、漢文を学ぶことにより、付随して「からごころ」が芽生え、これは今で言う、「支那かぶれ」となることを、「うひ山ぶみ」にて皮肉っているが、そのことについての言及がないこと(英語好きの英国かぶれと似ている)
・山鹿素行が、漢文で書いた「中朝真実」という本の中で、日本書紀にて、「中国を意味するのは日本である」と記述があるにも係らず、研究者の中には、実態としての支那漢文学を中国文学と書き替える事例が存在していること(渡部昇一「名著で読む日本史」での指摘)
・山鹿素行、乃木希典、良寛など、日本人が書いた、漢文、漢詩の紹介がほとんどないこと(乃木希典は、漢文で書かれた、山鹿素行の「中朝真実」という本を、昭和天皇に涙ながらに上奏したことが、渡部昇一「名著で読む日本史」に書いてある)

―――――――――――――――――

実は、私の中学高校時代、最も嫌いだった科目は、漢文であった。
勉強する気がまるでおきなかったのである。同級生ほとんどがそうだった。

この年になって、国民の一人として、上記に列挙した事実に遅まきながら気が付き、教科書そのものが偏向していた結果、学ぶ気が起きなかったという結論に達した。日本人が書いた漢文なら、もう少し読む気になっただろうという意味である。


新学習指導要領では、論語を漢文教材の基軸と位置付けるべく、認識しているようである。支那や韓国で起きた、儒教の弊害などどうでもいいようである。(下記注1参照)

http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/toshokan/images/kiyo56-21.pdf

この教育指導要領においては、なぜか「論語カルタ」ごっこを推奨しているようだが、日本人のための教科書なのであるからに、日本人が書いた漢文の題材としての教科書採用が先ではないかと言いたい。

そして、指導要領の解説書を書いた、この学者、本居宣長に言わせれば、「からごころ」的な学者(本居宣長曰く、支那かぶれの学者)と言われても仕方ないのである。儒教の弊害を知らない、漢文の教科書執筆者であることが、論外と書いたら書き過ぎであろうか。

また、領海侵犯を繰り返し、反日教育を正当化し、歴史捏造を外交上の武器としているこの国の哲学など、教科書に載せる必要を私個人はまったく感じない。

まずは、本居宣長が「うひ山ぶみ」(名著です。是非一読されることをお薦めします。)にて主張したように、日本人が漢文と係る心得から教科書に載せるのが、教科書執筆者としての最低限での心得ではあるまいか。

そして、到知出版社から、この1月に、「山鹿素行「中朝事実」」を読む」(原文は漢文で書かれている)が出版されたが、この本、長らく入手困難だったようであり、今回の出版化をきっかけに、国語教育界における(支那かぶれの)是正に繋がることを私は期待したい。


日本の思想史を激震させた山鹿素行の幻の名著
山鹿素行「中朝事実」を読む
https://online.chichi.co.jp/products/detail.php?product_id=1856


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注1

帰化日本人だから解る日本人の美点・弱点(黄文雄、呉善花、石平)からの転載

121P
石平
儒教ということでいうと、語っていることのほとんどが道徳倫理です。つまり、「仁」とか「義」とか「信」とかの徳目です。それなのに、中国では本当の意味での道徳心が育ってきませんでした。なぜかというと、道徳の根拠が何も示されていないからです。問題はまさにここにあります。
「仁」や「義」などの儒教が語る徳目の根拠は何かということ、これを儒教は明らかにしていません。人間はなぜ道徳を守らなければならないのか、動機付けがなくてはなりませんが、儒教はこれを与えていないんです。


123〜124P
黄文雄
儒教道徳の「仁」とか「義」とかは外的に強制していくものです。仁たれ、義たれと外から強制的に押し付けるのが儒教思想です。
私の体験でいえば、外的な強制は親からの圧力と社会の圧力でした。そうして生み出される社会道徳というのは、非常に偽善的で形式的なものです。外的な強制が強ければ強いほど、人というのはやむを得ず偽善者になっていく。中華思想の教育を受けた人間ならば、独善的に考えるようになってしまうでしょう。
つまり、外的強制をすればするほど、人間の良心が奪われてしまうんですよ。儒教道徳の強制は、日本の国学者もいっているように、人間本来の良心を奪ってしまうんです。

124P
黄文雄
ようするに、儒教がいう徳目というのは、それぞれの独自で解釈して構わないという考えなんです。

131〜132P
黄文雄
中国の殷(前十六世紀頃〜前十一世紀頃)の時代には、道徳というよりも宗教的なお告げみたいなこと、たとえば売らないなどを大事にしていました。周(前一一○○頃〜前二五六)の時代になって礼を強調するようになります。人間関係では、どういう時代にどういう礼をすればいいのかが、段々定まっていきます。時代を下ると、礼だけでは社会秩序がうまく保てなくなって、家族主義の社会でしたから、特に家族をめぐる精神的な規律としての道徳が唱えはじめられていきます。そうして、孔子が仁を強調し、孟子が義を強調するようになっていきます。
しかし、戦国時代(前四○三〜前二二一)になると、礼と徳でも不十分、もうどうにもならなくなって、ついに法が出てきたわけです。法の規制がないと社会秩序を保てないまでになったんですね。そこで出てきたのが、戦国末期の韓非(〜前二三三頃)らの法家思想です。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。
卓見だと思います。
FBで拡散させて頂きました。
後、トラバをこのエントリーに掛けさせて
頂きました。
今後とも宜しくお願いします。
ロベルト・ジーコ・ロッシ
2015/02/08 16:20
コメント投稿、そして激励感謝します。本件、誰も指摘してこなかったことですが、書かざるを得ない気持ちから出稿しました。
「山鹿素行「中朝事実」」を読む」を手に取って読んだ感想ですが、こんな重要な本が埋もれたままでいいはずがありません。
この本の存在に多くの方が気づき、漢文教育の偏向が一日も早く是正されることを願ってやみません。
管理人
2015/02/08 18:57
漢文教育は本質からすると言わば方法としての語学ですから、四書五経や古文真宝をはじめとする以前から規範となってきた漢文を読むことには価値があります。また、儒教などは東アジアの知識人のコンセンサスとして普く前提されていますから、これは日本人の書いた漢文を読む際にも不可欠の教養であると言えます。実際に私の在籍する高校では、そのような語学的思想的コンセンサスを形成するための教育を踏まえた上で、会沢正志斎などの書いたものを内容に集中して読むということを行いました。
教科書の偏向というのはその思想的見地のみから述べられることであって、現存する漢文文献相互の関係をよく考慮すれば、その求められている役割においては本質的に妥当な素材選択がなされていると言えると思うのです。日本の漢文文献まで読ませるのはページ数に限界のある教科書の仕事としては不適当です。そもそも僅かなページ数に窮屈に収められた浅薄な思想的知識は、労力を割かせてまで漢文そのままに読む価値のあるものと言えるのでしょうか。
このようなわけで、この種の議論は教科書の改善に関する議論としてではなく、高校教員の指導における目標設定に関する問題提起としてあるべきものだろうと考えます。いかがでしょうか。
クラムボン
2015/04/24 06:40
クラムボンさんは、熱心な教師だった方のようですね。
会沢正志斎のことは初めて知りました。この方をご存じであるということは、クラムボンさんは一応は保守層?であり、教養としての中国哲学の価値を認める前提でコメントします。

<漢文教育は本質からすると言わば方法としての語学ですから、四書五経や古文真宝をはじめとする以前から規範となってきた漢文を読むことには価値があります。

漢文の定義について、こう書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%96%87
「漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または近代中国人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう」

クラムボンさんは、漢文を語学としての中国語ととらえているように思われます。確かに、漢文は、形態的には中国語ということにはなるでしょう。私が認識する漢文とは、国語教育の一環としての位置づけとなります。方法としての語学なら教科名は中国語であるべきでしょう。文科省は、国語教育の一部として漢文教育を位置付けているはずです。

次に、仮に規範だとしても、その欠陥に気づかない、あるいは、その欠陥を指摘してこなかった、教育政策上の問題はないのでしょうか。倫理社会という教科がありましたが、そういうことは書いていなかったと記憶します。ただ、四書五経については、教養としての価値は認めます。
管理人
2015/04/24 12:14
<教科書の偏向というのはその思想的見地のみから述べられることであって、現存する漢文文献相互の関係をよく考慮すれば、その求められている役割においては本質的に妥当な素材選択がなされていると言えると思うのです。
「偏向」という言葉について、一般論で書かれていますが、教科書の偏向には、素材の選択の偏向、文章作文的偏向の2種類があるように考えます。
歴史教科書にて、なかったものをあったというスタンスで記述している(南京虐殺、慰安婦問題など)のは、素材の選択の偏向でしょう。なかったものをあったとするスタンス自体が選択であるからです。文章作文的偏向については、ここでは敢えてふれません。
素材は、漢文で書かれているもので、文献価値ある方が望ましい?のであって、別に、中国作のものに限定しなければならない積極的根拠はないように思います。中国語教育ではなく、国語教育であるからです。
国語的文献価値で言うと、日本書紀はその筆頭となるでしょう。

管理人
2015/04/24 12:15
<その求められている役割においては
「役割」という言葉の定義がないため、意味が理解できません。役割は、国語教育だったはずです。私は、漢字文で書かれていて、国語(日本国)的視点でみて、価値がある文献を優先させるべきだろうと思います。

<日本の漢文文献まで読ませるのはページ数に限界のある教科書の仕事としては不適当です。
日本書紀の最初の部分、「中朝事実」の序文の一部だけでも教科書にて紹介し(合計で2頁分)、漢文で書かれていることを示すことで、頁数的に不都合があるとは思えません。そうした方が、奈良時代に国内的に使用された、漢文に興味を持つ生徒が増えると思います。

<そもそも僅かなページ数に窮屈に収められた浅薄な思想的知識は、労力を割かせてまで漢文そのままに読む価値のあるものと言えるのでしょうか。
浅薄な思想的知識=中国哲学そのものが浅薄?ではなく、頁数的に思想全体を包含できるほどの頁数とならない、という意味で書かれたと思います。日本書紀を「浅薄な思想的知識」と読めなくはありませんが、教師の立場でそうは言わないと認識します。

<このようなわけで、この種の議論は教科書の改善に関する議論としてではなく、高校教員の指導における目標設定に関する問題提起としてあるべきものだろうと考えます。いかがでしょうか。

そういう指導手法があることは理解しました。
が、しかし、議論の前提条件のところで食い違いがあるように思います。
管理人
2015/04/24 12:16

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